そして私は高校一年生だから17歳の歳に社会人山岳会に入会した
その社会人山岳会は「船橋 嶮稜登高会」といった
創立は1960年10月1日、山好きの男性10人で立ち上げた山岳会である
創立当時の会名は「山百合の会」といった
私は1964年入会の第5期新人であった
その年のただひとりの入会者であった
私は、学校帰りに、カバンをぶら下げたままで、会の集会に参加していた
私が入会したこの年は、会の低迷期で会山行は一度も行われていなかった
創設者のひとりである北川氏が集会の席で、高校一年生の私に「冬の合宿は北岳だが行くか」と問われたが、私は、北岳がどこにある山なのかもわからなかったし、また、その冬山合宿は行われもしなかった
会員それぞれが、別々に、勝手に山行を計画して実践していた
私も学校の先輩であり、会の先輩でもある方と二人で個人山行を計画し実践していた
夜行日帰りの丹沢の沢登りが私の主な山行であった
会に報告なしの単独山行も多くあった
今聞いたら驚くかもしれないが、小田急には山岳夜行電車が運行されていた
小田急に就職したら、只(ただ)で山に行けると、バカのことを考えたこともあった(w)
一時、4年間仙台へ行くことで嶮稜登高会は抜けたが、社会人となっても嶮稜登高会には所属し続け、山域は谷川岳や八ヶ岳ヘ、穂高や劒へ、ヨーロッパへと広がり、登山形態は岩登りや氷壁、冬山へと広がって行った
私は1971年からチーフリーターをつとめ、この10年間は私達にとっては黄金期で、その後、私は会の代表もつとめたが、その間に穂高で大きな遭難事故が起こり、ヨーロッパアルプスを目指す若い2人の会員を失った
飛騨側と岳沢側に分かれて落ちた2人の遺体収容にも長い間を要した
この山岳遭難に加え、前代表の不祥事も重なり、会の存続は大変に難しくなっていたが、会員、OB、岳連、岳友の多くの方々の協力と努力により何とか持ちこたえることができた
そして、嶮稜登高会は60周年を超え、今年で創立64年を迎える
現役会員は、嶮稜登高会に会歌があるのも知らなかった
77歳にして山歩きを続け、嶮稜登高会とも繋がりを保つ会のOBの方の働きにより会歌が復活し、楽譜としても、ピアノ曲としても作られ復活した
人から人へと歌い続けられて来た会歌は、あやふやにもなっていた歌詞も正しく校正されてよみがえった
それに合わせ、嶮稜のザックマークもKRCの肩マークも復活した
誠にありがたいことである
ご尽力いただいたOBの方に感謝する
創立者のひとりである作詞者の加藤貞宏氏にも報告が行き喜んでいただけたとのことである
加藤氏は私に谷川岳を教えてくれた師である
妻とは嶮稜登高会が縁で知り合うことができた
嶮稜登高会は私を育ててくれたひとつの要因でもある
そこで出会った人達と共に歩み共に育っち、そして今の自分がある
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