昨日、身内の葬儀からトンボ帰りで帰ってきた
帰宅後直ぐに、預けてあったお宅からMatthewを引き取ってきた
今日は朝から日常に戻った
朝は、寒い寒いと言いながら、リビングルームのエアコンを入れ、キッチンのレインボーストーブを点けた
いつもの朝と同じで、smokyの餌皿にごはんを追加し、水皿の水を確認した
エアコンの暖かな風を受ける所で、暖かな衣服に着替えた
今日は、その後もいつもの日常と同じようにして過ごした
いつもの日常のようにして過ごせることはとてもありがたいことに思える
立花隆氏の思いと私の思いは同期する
死んでしまえば肉体はゴミだと立花氏は言う
私もそう言ってきた
希望通りになるか、死んでしまったら自身にはわからないわけだが、「戒名不要」の「直葬」で「海洋散骨」を私は希望している
死後の名前は必要ない
親からもらった名前で十分だし、私自身がその名が好きだし、よく知らない人から名前はもらいたくない
亡くなった方を戒名で呼ぶ人を私は見たり聞いたりしたことがない
第一、難しいし、読みづらいし、呼びづらい
直葬を望むのは、ケチだからではない
死んで尚、多くの方に迷惑はかけられない
あとは、坊主が嫌い
「死後、土に還るとか母なる海に還る」なんて高尚なことは考えても思ってもいない
海洋散骨はそんな意味で希望しているわけではない
立花氏の考えと同じで「死んでしまえば肉体はただのゴミ」と私は思っている
海に流すのが一番手っ取り早い
勿論、他の人にこうしろとか、こう考えろとかということはしない
そんな話をしたら、怒り出す人もいると思う
後期高齢者くらいの年齢になると、自然と死は怖くなくなってきたと立花氏は言う
私も死は怖くなくなってきた
立花氏も言っているが、ある年齢に達した人はどんどん死んでいく
自分もそういう年齢に入ったわけだから、自然と「死」というものが慣れ親しんだものになってくる
だから、自然と怖くなくなってくると立花氏は言う
私も歳を重ねるにつれ少しづつ変わってきたというかわかってきた
死は、私も慣れ親しんだものとなり、それにつれ、死は怖くなくなってきた
次は誰なのか、私の順番もそう遠くはないはずだなどと考えている
死は身近なものとなった
身近となった死は日常の大切さにつながる
いまの日常を「がんばらなくていいから」いつも通りに普通に生きればよい
搬送機の固着した変速ワイヤーは、灯油に3日も浸してあるがまだ動かない
変速機は別な方法で変速させなければならない
燃料タンクは、中に砂利を入れ、燃料出口を木片で塞ぎ、灯油を入れて給油口を閉じて、ガシャガシャと何度も揺すり、タンク内の錆を落とした変速機内のギャーオイルは空に近い状態になっているようだ
搬送機を動かすための多くの課題に私は頭を痛めている
こんな苦労の日常は平和である
夕食の支度に忙しい妻の足元で、smokyがいつものように抱っこをせがんでいる
妻はsmokyを左腕でかかい上げ、右手で鍋の中の何かをかき混ぜている
smokyの夕方抱っこも日常である
人は、過去の蓄積の上に新しい日々を重ねて蓄積を上積みしていく
蓄積の主な中味は日常だと思う
その蓄積がその人を熟成させ現在に至っている
熟成度は年齢となる
歳を重ねてやっとわかってくることはかなりある
熟成させるためには、大して変化のないと思える日常を正しく積み重ねていくことがとても重要だと思う
死は怖くなくなってきた
死は誰にでもやってくる
仕方がないじゃないか
【備考】
「日常=平和」とは限らない
生まれたときから戦争が日常の人もいる
戦争を知らない私はうまいことは何も言えないが、そんなところにも大して変わらない日常は間違いなく明日もやってくる

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