2024年5月24日金曜日

福一視察

 本日(5月23日)、福島第一原子力発電所の視察に行ってきた

国道288号線を東へ都路町から富岡町に入り、まずは東京電力廃炉資料館(*1)へと向かった

東京電力廃炉資料館へ向かう道のりで目にしたものを言ってみると次の様になる

都路町まで:工事中、新工業団地、田植え、新緑、新トンネル、新砂防ダム、太陽光パネル、新築など

富岡町から大熊町まで:バリケード、高圧鉄塔、整地された田、新生コン工場、作業員、工事、ダンプカー、新築アパート、新築、廃屋など

東京電力廃炉資料館では、東京電力の制服を着た多くの方に玄関外で迎えられた

中に入ると、視察の申し込み時に使った身分証明の提示が求められた

私はマイナカードを見せた

これは一旦預かるとのことである

コピーを取り、そのコピーは福島第一原子力発電所への入域時に使うとの説明があった

質問した訳ではないが、それ以外のことには使わないとの説明が加えられた

その後、少なくとも30人は収容でき2階のシアタールームに案内され、超大型の壁と床のスクリーンへ映像を映しての、お詫びの言葉から始まり、原発事故の経緯が説明された

処理水、燃料デブリの取り出しの説明も中にあった

この説明が終わると昼食時間となり、私はコンビニで買ってきたサンドイッチと持参の水とで昼食とした

昼食後、東京電力が用意した大型バスにて富岡町の東京電力廃炉資料館から国道6号線を仙台方向へ北上し、福島第一原子力発電所へと向かった

メモ用具以外の持ち物はすべて置いておくようにとの指示に従い、財布とメモ用紙と鉛筆をポケットに仕舞い、スマホなど他の物は東京電力廃炉資料館の会議室内に置いて出た

時計も外して残すようにと指示があった

口の中にガムがあったり飴があったりしても駄目だそうだ

廃炉資料館を出るに際し、許可証の様なものを首から下げるようにとの指示があって配られた

視察の組を表す青色の輪となった紐も指示に基づき首にかけた

バスは、国道6号線から262号線(夫沢大野線)を東の海方向へと右折し、検問所を通り、車は入退域管理棟に横付けされた

このバスはフロントガラスに許可証が貼られていたためか、すんなりと通過した

廃炉資料館で首から下げるように言われた許可証の様なものに加え、黄色の首から下げる入退証を渡され、これも首にかけた

入退域管理棟の入り口ではガードマンによる入退証のチェックを受けた

入り口では、靴を上履きに履か替え、金属探知機のチェックを受け、入退証を用いたチェックを受ける入りと出のゲートを通過後、体のサイズに合わせた多くの網目ポケットがついたベストが支給された

その後、個人別に首から吊るしている紐にセットする線量計が渡された

この線量計は男性の場合は着たベストの左胸ポケットへ、入退証は右胸ポケットへ収めるようにとの指示があった

外に出る際にも、線量計と入退証が正しい位置にあるか否かのチェックをドアー内の回転ゲートのところで受けた

実に細かい

確かに、歩いている人を見ると、何種類もの許可証の様なものを首からぶら下げている人もいる

色々な所で入域に制限があるのだろう

バスは桜通りを北に進み、右に汚染水貯蔵タンクを見ながら東の海方向に右折し、左に汚染水処理のALPSを見ながら真っ直ぐに進み、瓦礫と化した1号機の前に出た

バスの中の線量計は、24.4μS/hの数値を示している

バスを降り、階段を少し登り、1号機、2号機のほぼ正面に設けられたブルーデッキ(*2)に上がった

天気は快晴で、デッキの上は太平洋から吹く風が少し強く当たるものの、心地よく爽やであった

私はただマスクをしただけの普段着の姿のままで視察をしている訳だが、15メートル下では、白のタイベックを着て、防護マスクをつけた作業員が何人も動き回っている

こんなに大きなクレーンが世の中にあるのかと思える超大型のクローラー移動クレーンが1号機の前でゆっくりと2号機方向へと動いていた

時折、大きな音を響かせる

クレーンの運転席には豆粒の様に見える一人のオペレーターの姿があった

ここブルーデッキに設置された線量計は、何と59μS/hの値を示していた

ブルーデッキから1号機、2号機までは直線距離にして80メールの距離しかない

本当に目の前といった感じである

ゴルフがわかる人ならサンドウェッジがアプローチウェッジの近さの距離であると理解できる

未来 ワーク ふくしまのHPから
水素爆発した1号機の姿は鉄骨がむき出しですさまじいが、見た目は外壁が残っている2号機からの放射性物質の拡散が激しかったとの説明は不思議な感じがした
添付写真は1号機の状況を写したものだが、写真撮影は禁じられているので、「未来 ワーク ふくしま」のHPにある視察記録からお借りした
私が目にした現物はもっと生々しく見えた
このブルーデッキの上で3号機方面をバックにし、案内者の1人がかなり古いデジタルカメラを使い記念撮影(?)が行われた
何かに使う目的はなく、写真は頂けると説明された
帰るまでに頂けると思っていたが、そうではなかった
※この記念写真が届いたら、お借りした1号機の写真と入れ替えるつもりでいる
撮影許可の特定場所を設け、そこだけは写真が撮れるようにしてくれても良いのではないかと感じた
しかし、ブルーデッキの下には配布されたボールペンが何本も落ちている状態であったし、風で防止が飛ばされて案内者が追いかけるということもあって、放射線量の高いところで落とされたら返すことができなくなる難しさもあるのだろうとは理解した

1号機と2号機は、一本の共用排気塔の関係でつながっていたこと、また、1号機の水素爆発の衝撃で2号機の外壁の破れた個所から放射性物質が漏れ出たとの説明が加えられた

3号機と4号機の使用済み燃料プールにあった使用済み燃料の取り出しは完了している

しかし、1号機と2号機の使用済み燃料プールには使用済み燃料が残されている

これの取り出しが急がれる

各号機の破損状況が違うためだろうか、各号機の使用済み燃料プールから使用済み燃料を取り出す方法は違っているようだ

3号機は上部にかまぼこ型の設備を設置し上から取り出したようだ

2号機は横に穴を空けてそこから取り出す方法で進めているとの説明があった

見た目には損傷の激しい1号機の使用済み燃料プールに残された使用済み燃料はどのようにして取り出すのか、説明はあったように思うが、私の理解は及ばなかった

4号機は上から取り出したと説明があったように記憶している

4号機は一番奥にあってよくは見えなかったが、1号機から3号機は私の目の前にあり、今まで話しにも聞き、写真も動画も見て来ていたが、現物を目の前にすると、また大きな衝撃と怒りが胸にこみ上げてきた

13年も経って、まだこんな姿なのかとの思いにも駆られた

その後、汚染水処理施設とか事故当時壮絶な戦いやTVを通しての見ることも聞くこともできた東電本社との激しいやり取りが行われた免振重要棟(*4)とか、水冷の使用済み燃料保管場所とかの説明を受けながら海を間近に見る双葉町側のグリーンデッキ(*3)に案内され、そのデッキに上がった

このデッキからは、晴れ上がった太平洋が奥の奥までどこまでも広がって見えた

処理水の排水設備、経路についてはかなり長い説明があった

また、グリーンデッキには処理水を海洋放出するための地下の岩盤を削り掘り進め、トンネル掘削に実際に使った切り刃がペンキで塗り直されて展示されていた

ただ水を流すめにしてはかなり大きなトンネルであることがわかる

直径3メートルほどはあるかと思えた

パーツを組み合わせてトンネルの形にする

このグリーンデッキから右手の大熊町方向を眺めると真っ白な防潮堤が建設済みになっていた

この防潮堤、グリーンデッキからだとても低く見えたが、説明によると15mあるそうだ

防潮堤の上は道路になっているそうだ

クリーンデッキの真下には、古い白い円柱形のタンクが残されている

このタンクは津波の威力によって付け根付近が反時計回りに捻れて、右の付け根部分はちぎれていた

このタンクの左には、これより小さなタンクが2つあったそうだが、これは津波で剥がされ流されたそうである

残されたこのタンクは津波の威力を伝えるためにも残すと説明されていた

それならば、もう少し保存状態を良くしてもよい様に思われた

掛けてあったと思われるシートは風化して殆ど残っていなく、風に揺れていた

この処理水の排出については海外からの批判、常磐物水産物に対する風評被害等が社会問題となっている関係であろうか、結構な時間をかけての長い説明であった

どんなに丁寧に説明されようが、どんなに安全と言われようが、増え続けて処理に困った処理水を希釈して海に流して捨てていることにかわりはない

そんな処理水に関しての私の関心度は低く、その説明を聞くよりも、私は、5号機、6号機の先にどこまでも続く、双葉町の太平洋から垂直に切り立った崖の上に広がる高台をぼうっと眺めていた

どんな事情があったのかは知れないが、そもそも、この海岸線から一気にそびえる崖上の高台を削ってまでして原子炉本体を海面近くまで下ろして建設していなければ、大地震が来ても、大津波が来ても、これほどまでの大事故、大惨事には至らなかったのではないかと思うのである

バックアップ用の電源もすべて津波によって破損し機能しなくなったと記憶している

再びバスに乗り入退域管理棟へ帰ってきたが、その途中に何号機だかの格納容器の頭の部分と言われた思う物が、それもやけに簡単に包まれて道路脇に保管されていた

ちょっとその保管方法も、置いてある場所も、簡単すぎるように見えて不思議に思えた

案内者はその大きさだけを強調して説明していた

私は2013年春の西日本車中泊の旅で、中部電力浜岡原子力発電所の電力資料館を見学している

その日その時の見学者は私一人で、広くがらんとした資料館をゆっくりと見学できた

その電力資料館には、原子炉の現物大の模型が展示されていた

私はその大きさに圧倒された

模型とはいえこの目で原子炉全体を見ているので、原子炉の頭の部分と説明された物のその大きさは実感として捉えることができる

また入退域管理棟に帰る途中では、大きいものだが一般的にも地下タンクとして使われている古いタンクが、裸のまま何本も横倒しに積まれて保管されていた

事故当初の汚染水を保管していた容器と説明があった

これも廃棄処分待ちであろうと想像できる

また、帰りの途中で、空冷の使用済み燃料の保管設備の脇を通りその説明もあった

使用済み核燃料の本当にすぐ脇を、手を伸ばせば届きそうでは大げさだが、バスの中とはいえ、そんな近くを通っていることは、驚き以上のものがあった

実は、「驚き」ではその気持ちは表せていないのだが、なんと表現したよいのかもわからなかった

使用済みとはいえ、この様にして核燃料の近くに行くことは、私の人生において二度とないことだろう

後で質問したところ、この空冷貯蔵庫は、事故前から備わっていた設備だそうで、水冷貯蔵庫で放射レベルが下がった燃料は、この空冷貯蔵庫に移して保管するそうである

この空冷貯蔵庫は裸のままの姿のように見えた

ここで放射レベルが下がった使用済み燃料はどうするのかと追加で説明を求めたところ、案内者は即答ができず、説明用のパソコンを操作していた人と話をして、現在は処理できる所がないと回答された

またこれも帰りの途中にあった大きな設備であるが、原子力発電所内で出たものは外に出せないと説明された

例えば作業員が使った防御服のタイベックとか原発敷地内の木々はチップに加工して原発敷地内で焼却して減容しているそうだ

このことは双葉町の協力を得てのことと説明が加えられた

そんな説明を聞いた後にバスから別なものも見た

廃車に近い車やナンバープレートもない車が敷地内の駐車スペースに結構な数が置かれていた

これも原発敷地外には出せないものの一つになっているのではないかと思われた

また、水素爆発で吹き飛んだものや瓦礫と化して整理したものも、ここにか、またはどこかの原発敷地内に保管されているのだろうと思える

汚染水だけでなく、これらの放射性廃棄物の処分にも困ってくるのではないかと思われた

既に困っているのかもしれない

入退域管理棟から出るにも、再び複雑な工程を経て外に出ることになる

体全体の被ばく線量を測っているのかそんなケージの中にも入った

入って出るまでの手順はちょっと複雑であった

足は少し開いて金属のスノコの上に置く

前方左右のボックス状の中に、両の手のひらを開いて指の先が当たるところまで入れる

頭の上から降りてくるものを感じで終わる

チェックOKならばケージの扉が開いて出る

私は左手の甲か測定機に触れたようで、一度やり直しとなった

これを出ると胸につけていた個線量計のチェックがある

私の線量計は、0.01の値を示していた

線量計を受け取った従業員に「この値はマイクロシーベルトですか」と聞いたら、そうだという

だが、それは違っていたようで、私の後方から誰だか確認はできなかったけれど、「マイクロシーベルトにすると、10μS/hになる」声高く訂正した方がいた

多分、案内者の一人であったと思う

線量計の値は、mS/hだったようだ

この従業員は良くわかっていなかったようである

案内者は、この視察で受けた0.01mS/hの被ばく線量についてその安全性を説明した

「歯医者さんでレントゲン撮影を一枚撮った程度の被ばく線量である」と説明し、その安全性を強調した

私は逆に考えた

歯科医のレントゲンでそれほど被ばくするのかと認識を新たにした

入退域管理棟を出る際にも入った時と同じ入りと出のゲートを通る

入りのゲートを入り、入退証をチェック窓にかざしたが、出のゲートが開かず、私はしばらく閉じ込められてしまった

係員が私の首にぶら下げてある入退証を手に取り、そこに記されている入退証番号を電話で連絡していた

その入退証には私の情報とつながっていたとも思えるやり取りが、電話の会話の中にあったように思えた

確かに、入退管理にミスがあってはならない

連絡後もしばらくゲートは開かず、やっと開いたのは出のゲートではなく入りのゲートで、もとに戻されて私は最初からやり直しとなった

私は「原子力発電所から何も持ち出していないょ〜」と叫びたくなったが、この雰囲気の中において、そんなことは言えるはずもなかった

今回の視察は、バスに乗り案内され、それほど原発敷地内を歩いたわけでもないが、なんだかとても疲れた!!

その後、東京電力のバスで、再び出発地である東京電力廃炉資料館へ戻って来た

福島第一原子力発電所から国道6号線に出るまでの262号線(夫沢大野線)は一般車両は乗り入れ禁止となっている

福島第一原子力発電所を出て直ぐのところの左手の藪の中に、そしてもう少し先の右手にも廃屋となった一般住宅があった

こんな近くで生活をしていた方が居たとは驚きであった

廃炉資料館に向けて走るバスの窓から、私は左手の太平洋側をぼおっと眺めていた

国道6号線の道路脇の固定の線量計が私の目に止まった

その線量計の液晶表示には、0.47μS/hの値が示されていた

私も普通にこの6号線を走っているし、ダンプ以外にも一般車両も多く走っている

国道6号線は重要な生活道路であると案内者もそのような話をしていた

少し先には規制が解除された桜で有名な夜の森公園もある

富岡町の規制は緩和され、新築の家も多く目にすることができるが、まだまだ放射線量は高いと実感できた瞬間であった

我が家の場合、玄関先の放射線量の値が0.23μS/hで、12年前に除染対象となった

作業員が来て、ガレージとパイプハウスの作業場の周囲1mだけの表土を剥いだ(w)

母屋の周りの汚染度は低いと言って、母屋周りの表土の剥離は行わなかった

母屋の周りの放射線量が低かったのは当然なのである

平均で0.20μS/h以下まで下がり、4ヶ月に及ぶ自主避難から私達は我が家に帰って来た

妻は、小さなシャベルを使って母屋の周りの表土を削り、私はそれを土のう袋に詰めて、バックホウで穴を掘り、その汚染土は庭に埋めた

除染対象となった我が家へは、除染作業のために10名ほどの作業員が派遣されて来た

家の周りには除染作業中の青や赤の旗竿が立てられ風になびいた

除染作業員のボスとサブリーダーは岡山県人であった

ボスは杖をついて歩き、何もしない人であたし、実際に手を汚して働いていたのは福島県人のおばさんやおじさん達であった

指示役は、高校野球球児と自慢していた岡山県人のサブリーダーであった

除染作業後、きれいな作業服を着た人が我が家の敷地内に無断で入ってきて、ガレージ裏を線量計で測定し始めた

私は外に出て、あなたは誰で、何をしているのかと問いただした

市の職員で、除染後の放射線量を測りに来たという

住人に無断で測って良い理由はない

いうまでもなくこの様に我が家の除染はどこをとっても茶番でしかなかったが、国道6号線脇の0.47μS/hの値を示していたところは、この先どうするんだろうと思えた

福島第一原子力発電所の広い敷地内にはとても多くの車、とても多くの人が歩いていた

それもマスクさえしていない人が多い

中身が見える透明のビニールバックをぶら下げて歩いている方を何人か目にした

入退時にバッグの中が見えた方がわかりやすいのかもしれないと思った

金属探知機を通って中に入る作業員が、カップラーメンをステレス皿に乗せて金属探知機に通す姿も見た

大きな建屋の作業員の休憩棟の脇も通った

ここでカップラーメンは食べるのかもしれない

何処にあるのかは聞かなかったが、中にはコンビニのローソンが入っているそうだ

食堂もあるが、中で調理はできないそうだ

入退域管理棟を出たすぐ脇には緊急車が2台止まっていた

またそのすぐ先のドアーの上には赤文字でERの表示があった

医師も看護師も常駐している

この原子力発電所の入口を入ってすぐのところにヘリポートもあった

瓦礫と化した原発に近づかなければ、原発敷地内は大きな町の中を歩いているような気になる

桜通りの桜の古木は、今年もきれいな花を咲かせただろう

汚染水タンクの増設で、1000本あった桜は400本になったと説明があった

つくづく思った

東京電力は、原発敷地内を見ても、東京電力廃炉推進カンパニーという組織の規模、機能を見ても、何を見ても、これほどのことができるのだと余裕さえ感じられたし、道々見せる新築住宅、復興設備、工事現場、絶え間なく走るダンプカーなどなど、多くのものが目に入ってくると、30km圏外の゙当市の一部を含む30km圏内の復興支援、生活補償といったような名目の資金など、ここには莫大に金が落とされ、落とされ続けているのだろうと感じた

【説明からのメモの一部】

富岡町:事故前住民16,000人、住民登録13,000人、現住民2,300人

大熊町:事故前住民11,000人、住民登録10,000人、現住民600人

福島第一原子力発電所内の東京電力廃炉推進カンパニー従業員:1,000人

福島第一原子力発電所内で働く作業員:4,000人

視察者:18,000人/年、100組/年、1,500人/日

汚染水処理:3つのALPSそれぞれで、 750+750+500リューベの処理能力を有する

原子炉循環冷却:80トンの循環水で原子炉を冷却、燃料に触れた地下水と雨水の汚染水が不要となる

1号機(稼働中):水素爆発 (燃料外側金属と水が反応して水素を発生)

2号機(稼働中):爆発はしなかったが1号機爆発により外壁の損傷個所から放射性物質が漏れだした

3号機(稼働中):水素爆発

4号機(点検中):3号機からの水素の流れ込みによる水素爆発

◇使用済み燃料の取り出し

3号機566体取り出し完了、4号機1535体取り出し完了している

今も、1号機使用済み燃料プールに392体あり、2号機使用済み燃料プールに615体が残されている

※「体」という単位は、燃料集合体を表しているのではないかと思われる

◇ALPS処理水

セシウム137(Cs-137):ND(0.1539Bq/L未満、告示濃度限度90Bq/L)

ストロンチウム90(Sr-90):ND(0.07584Bq/L未満、告示濃度限度30Bq/L)

トリチウム(H-3):取れない(366,200Bq/L、告示濃度限度600,000Bq/L)

※中国が問題視しているのはトリチウムではなく、セシウム137とストロンチウム90はゼロではないということを言っていると説明があった

トリチウムはどの原子力発電所からも出ているとの説明も加わった

(*1) 東京電力廃炉資料館:以前は福島第ニ原子力発電所の電力資料館であった建屋と説明があった

(*2) ブルーデッキ:福島第一原子力発電所は大熊町と双葉町にまたがって隣接されている

大熊町側には1号機から4号機がある。大熊町のシンボルカラーは青である。町のシンボルカラーに合わせ1号機から4号機の外壁は青に塗られていた

1号機から4号機を見ることができるデッキを大熊町のシンボルカラーに合わせてブルーデッキと名付けたようだ

(*3) グリーンデッキ:5号機と6号機は双葉町にある。双葉町のシンボルカラーは緑である。町のシンボルカラーに合わせ5号機と6号機の外壁は緑に塗られていた

5号機から6号機を見ることができ、処理水排出施設のあるデッキを双葉町のシンボルカラーに合わせてグリーンデッキと名付けたようだ

(*4) 免震重要棟:事故直前に完成した設備棟であり、これがなかったら事故直後の対応は難しかったと説明があった

◇案内者

バスのドライバーを除いて5名の東京電力の方がついて案内をしてくれた

悪く取れば「監視」、良く取れば「安全確保」といえる

案内者のうち、マイクを使っての説明は、リーダー格の方が一人で行っていた

この方は、事故時には6万6千ボルトの電源をつなぐために東京本社から来たと言うのだから、優秀な技術屋さんだろう

事故当時には、建屋に入るのも電源喪失状態であったため、自動ドアーも開かず、中に居る人の手を借りて開けてもらう必要があったそうだ

事故当時、作業員は原子力発電所内に寝泊まりしていたが、自分は家族寮を使ったと話されていた

この案内者の方々は、福島第一廃炉推進カンパニー(東京電力の社内分社)の廃炉コミュニケーションセンターの方々と思う

案内者の方々は、東京電力廃炉資料館から私達の車が立ち去るまで玄関外に並んで立ち送ってくれた

中で最後には、また来ていただき、廃炉の進捗を見てもらいたいと言われたが、二度目の視察はないだろうと思う

また、他の方に廃炉の現状を説明してあげて欲しいとも言われた

東京電力関係者の説明よりも住民の方からの説明の方が良いとも話されていた

丁寧な案内をしてくださったとは感じたし、お礼も言った

しかし、どんなに説明されようが、努力している、頑張っているとなんと言われようが、私の芯のところから、この重大事故に至った東京電力の責任を問う気持ちを変えることはできなかった

案内者の方々もそう思ってくださっていると本日は感じた

シアタールームでの説明では、「人災」という言葉が使われた

日本政府の方針に強く絡んでのことではあるが、30km圏内に厚く、30km県外には冷たい東京電力の保障となっている

放射能汚染の広がりには仕切り線はないので、この考え方を基にして対応すべきだと思う

当市の場合、市の中に30kmの仕切りラインが存在し、更に30km圏外にも市長権限に基づいた仕切りラインが作られたため、複雑な状態が作り出されている

このことから、市民の感情のもつれやコミュニティーの崩壊を招いている

いまも思うことなのだが、子供を抱えた30Km圏外の自主避難者には特に冷たい対応が続いていると考える

最後に、このツアーは市の主催で行われたものである

参加者は、市の世話役職員一名を含めての9人であった

p.s.

この福島第一原子力発電所の人災といえるこの事故は、私の人生観を大きく変えた

人間不信に陥った

真面目に生きる人ほどバカを見る世の中である

だが、それを受け入れても真面目に生きて行きたいと思う

0 件のコメント:

コメントを投稿