昔々、仙台の南30kmの地に工場建設のため共に働いた先輩から連絡があった
今の話ではなく、5年ほど前の話である
膵臓がんが見つかり、東北大学病院へ入院したとの連絡であった
直ぐに見舞いに行った
4人部屋の窓側がその先輩のベッドてあった
ベッドの脇に立ち、窓を背にして彼は話し始めた
彼は、簡単な絵も書かれていた1枚のメモ用紙を私に渡した
そこには腹膜播種、余命6ヶ月と書かれていた
絵は星が散らばるように描かれていた
先輩とは久しぶりに会ったが、信州高田生まれのスキーで鍛えたガッシリとした体は変わらずに元気そうに見えた
それから3ヶ月が経ち、昔私の部下であった者から自宅に電話が入った
先輩が亡くなったとの知らせであった
あの元気な姿からたったの3ヶ月で逝ってしまった
恐ろしいスピードてある
私は78年も生きている
こうも長いと、かなりの数の身内、ご近所、友人、知人をがんで亡くしている
がんは寿命のようなものではないかと思えるようになった
無理して治さなくても良いような気にもなっている
がんと闘ってきた人たちも知っている
壮絶な戦いのように思える人もいる
がんと戦っているというより、手術や処置の後の痛みや苦しみ、抗がん剤などの薬が及ぼす副作用などの苦しみ、闘病によって奪われた時間、家族の負担などと戦っているように見える
前のブログに書いた通り、愛弟も胃がんが元で、摘出手術から数えて3年で逝ってしまった
口にも出さず態度にも示さないできた
弟の闘病については、本当のところ、私の気持ちは違っていた
色々とあるが、「何で諦めるんだよ」とか「もう少し頑張れ」とか「医者が言う通りに試してみろ」とか思っていた
でも、今は弟のがんとの過ごし方は正解であったような気がする
術後の抗がん剤治療は一回も保たずにあきらめた
食事か入らないと言っていた
術後、自営の仕事は辞めた
自前で何もかも全て自分で建てた房総のセカンドハウスで愛妻と2人で過ごした
痩せてきて、できなくなったことも多くあったと思うが、以前のように畑も庭も見事にきれいに整っていた
いつもの通り、野菜作りにも励んだ
しかしその後、腎臓への転移、腹膜播種とがんは広がり、転院となった
転院後は、身内の説得にすこしは応じたが、積極的な治療は拒否した
最後は自宅(本宅)で孫にも囲まれ、在宅緩和ケアを受けて、意識が混濁することもなくあの世へ旅立った
がんとは戦わずに残された時間を大切にして過ごした方が良いように私も思う
私ももう十分に生きて来た
いつ何が起きても不思議ではない年齢に達している
「死が日常」になってきている
死は誰にでも来る
私は、死ぬまで元気に生きる
死にそうになっても、自由をそして自分を大切にして生きる
母は風船がしぼむようにして亡くなった
死因は肺炎となっているが老衰である
家で看取ることができた
最後に「お前は私と似ているから長生きするよ」と言われた
私の死の順番も近いと思っているが、母に似ているなら、私も長生きするかもしれない
しかし誰もから、私は「父にそっくりだ」と言われ続けて育った
父は47歳の若さで亡くなっている
千葉生れの父方かぁ?それとも広島生れの母方かぁ?
母方に近い中間だろうなぁ!
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