2016年11月24日木曜日

初雪

東京、11月では54年ぶりの初雪だそうだ
わが家も雪化粧


11月の東京の積雪は、明治8年以降の統計開始以来初の積雪だそうだ

2016年11月22日火曜日

ネパールの魅力

ネパールの魅力は何と言ってもヒマラヤ山脈である
が、
首都カトマンズにはしばらく住んでみたいと思える魅力があった
定年退職後、カトマンズに1ヶ月程度住んでみようかと考えていたこともあった

街中にも牛がウロ・ウロ、力車が行き交い、ベルをうるさく鳴らす自転車が後ろから迫る
朝は朝靄の中を壺を持った人が用足しに出る
市場には羊の頭が吊るされている

それは、37年前のカトマンズであった
今は、牛の姿はないし、電線が束のように電柱に絡まり、溢れんばかりの車で道は大渋滞
どんなに細い路地にもバイクは入り込み、エンジンを吹かしている
カトマンズ盆地はスモッグに埋まっていた

とても、とても、住んでみたいカトマンズではなくなっていた

37年前、一週間をかけて歩いたジョムソン街道には、今や自動車道路が走っているそうだ
静かで落ち着きのあるポカラは、チャラ・チャラ高原リゾートになっているそうだ

時代といえば時代なんだろうが、カトマンズの魅力は私にとっては失せた!

入浴

明日から寒くなるというので、今日、暖かいうちにと日中に風呂に入った
医師の指示によれば、「サッと入浴してください」との指示であったが、
熱い湯につかったら、「サッと」は無理だった
ゆっくり、じっくりと入浴した
久しぶりに髭もあたった
風呂から出たら、ぶっ倒れるくらいフラ・フラになっていた
ジジイは言うことをきかないように成熟(?)する
「いくらでも寝られる回復モード」に入って来たので、またベッドに戻ろう(w)

干し柿

家内が今年も干し柿づくりを行っている
この干し柿にわが家の「ミっちゃん」が取り付いて収穫し巣に持ち帰っているようだ
これも蜜になるのか・・・・?
久しぶりに庭に出た
空気が濃い!
昨日から20時間ほど寝た
9日ぶりに平熱に戻った
体はふらついているので、平常の体力に戻るには時間がかかりそうな気がするが、回復期に入ったようだ
クラブを振ってみたいような気にもなった

2016年11月21日月曜日

11月21日(帰国6日目)

熱も下がり、気管が飛び出てしまうのではないかというような激しい咳の発作が起きることは少なくなった
しかし、体力というものを使い切ってしまったかのか、少し歩いただけで息切れはするし、フワフワと体が浮いているような不思議な感覚でもある
今日も通院した
私には、何故効いているのかわからないが、処方された「マイコプラズマ肺炎用の薬」が熱を下げ、咳の発作をしずめてくれているようだ
この薬を更に一週間続けることとなった
風呂に入ってもよいそうだ
家内に言わせると、私の身体はかなり臭いようだが、今日はまだ風呂に入る元気はない

【粉塵対策】
エベレスト街道などのトレッキング情報等からトレッキング歩行中の粉塵対策は自分なりによく考えて参加した
まずはメリノウールのバフを用意した
マスクは、不織布製の口に貼りつかない構造をしたマスクを選択しそれを用意した
5000m以上の高所では、防寒対策、日焼け対策にもなるバフを主に用いて防塵を行った
5000m以下の低所では、ヤクの糞、ホコリ、臭い対策の面から不織布マスクを主に使用して防塵を行った
また、スモッグがひどいカトマンズ市内でも不織布マスクを常用していた

【それでも肺炎になった】
結果として、私の粉塵対策では効果がなかった
まず、予測外のことは、ヤク糞ストーブの存在だ
室内煙突が破れていても平気で乾燥ヤクの糞を燃料としたストーブを焚く
私は、この破れ煙突から漏れた煙で喉をやられてから咳が出始めた
次の日に泊まったロッジでも、同じヤク糞ストーブの排煙が2階の私の泊まり部屋を直撃していた
(早く気付けば部屋を替えるなりの対策がとれたが、気づいたのは翌朝であった)
次にあげることができるのはヤク・ゾッキョ・駄馬の糞塵(ふんじん)だ
街道は足の置場に苦労するほどこれらの糞まみれの道となっていた
乾燥した糞は砂塵とともに舞い上がる。この糞塵雰囲気の中を歩いてきた
それと、カトマンズのスモッグがすごい。これは予想以上であった。どんなに細い路地でもバイクは入り込みエンジンを吹かしている
ヤク糞ストーブの排煙、糞塵、スモッグの三つの空気汚染で私は喉をやられ、気管をつぶし、肺炎になった

2016年11月20日日曜日

11月20日(帰国5日目)

平熱には戻らないが昨日の夕方からの変化と同様に37℃台の熱で、咳も治まってはいないが激しく咳き込むことはなくなった
だが、長いので、相当に体力は奪われている模様で、トイレまで歩いてもフラフラする
明日、通院となるがどのような処置になるのだろうか?
感染数値が高いのに何が原因なのか特定できていない

5500mは確かにきついが、高齢者には無理とはしたくない
このままで終わってしまってはそうなってしまう

11月19日(帰国4日目)

次の通院予定日は11月21日の月曜日と設定されていたが、昨夜の状態は気管が飛びしそうな激しい咳が続き、その後は呼吸が浅く困難になることが続き熱も高く引かない
月曜日までもたないと思い、家内から病院に電話を入れたところ、受け入れてくれることになり、再度詳しい検査と診察を受けた、基本的には昨日の状態と変わらないようだが、CT画像から肺に白く曇っているところがみられるとの所見があった
激しい症状が続いているので、強く入院を勧められたが、大部屋で夜は激しい咳が続き迷惑がかかること、
また、夜中少ない看護士の中ではわがままが効かないこと
家内が付き添いを提案したが受け入れられないことなどから
家に帰ることにした

夕方から大きく症状変わった
熱が少しずつであるが下がり始めた
平熱には戻らないが、37℃台に止まっている
また、咳は収まらないものの、気管が飛び出しそうな激しく咳き込むことが少なくなってきた
結果、
夜は眠れた

11月18日(帰国3日目)

今日も家庭の医院を訪ねる予定でいたが、昨夜若先生が考えてくれたようで、感染症に強い病院へ紹介するのでそこで診てもらったらどうかとの提案があった
私どもはその提案を受け入れ、午後にその病院の内科を受診した
丁寧な診察、細密な検査を受けた
どこにも異常は見つからなかったが、感染症の数値であるCRPの値はさらに高くなっていた
ただ一つ陽性反応があったのが、マイコプラズマであり、11月8日から咳が出ていることから考えると、理論的にはおかしいのだが、このマイコプラズマ肺炎の対処薬を処方してもらい帰宅となった
しかし、この薬も効かず、この夜も苦しい夜を過ごした
熱も下がらず、咳の発作に苦しんだ

11月16日(22日目) 帰国

バンコクからのフライト6時間は辛かった
隣のインド系の女性が親切で、タオルが回ってきたときも教えてくれて、飲み物が回ってきたときには私のテーブルを開いてくれた
私の体調が悪いことがわかっていたのではないかと思われた
飛行機の中であまり咳き込んでもとの思いもあったがかなり咳き込んだ
成田に着くまで何度も時計を見たが、針はなかなか進まなかった
税関の前に、健康相談室というのがあったが、ここに入るのはためらいがあった
添乗員のアンパンマン君からも「家に帰ったら、病院に行ってください」とも言われた
私が思っている以上に側から見ても私の体調不良はわかっていたのかもしれない
スーツケースは宅急便に託し、身軽になった

家に帰ってすぐに家庭医の医院を訪ねた
大先生に診てもらい胸のレントゲンを撮り確認したが、以前の映像と比較しても異常は見られなかった
訪問診察から帰ってきた若先生も気にしてくださり、血液検査の感染症の数値であるCRPが高いことをかなり気にしていた
脱水症も気にしてのか点滴注射を受けた
追加で肝機能と腎機能の検査も受けたが異常は見つからなかった
風邪薬のようなものと、お腹の薬、解熱剤を処方してもらい帰宅した
帰宅できた安心感からか、
夕方には39.9℃まで体温が上昇し、咳もさらにひどくなった
その夜は、下がっても38℃台の熱が続いた
解熱剤も効かなかった

11月15日(21日目) カトマンズ→バンコク

本日、帰国となる
カトマンズ発は13時55分なので午前中、少し余裕があり、古都パターンぐらいは観光できるのだが、私の体調はスモッグの中を歩く余裕がないように思われた
体調が思わしくないことを相棒に伝えると、「自分もパターン観光は行かなくてもよい」と言ってくれたので、そのようにしてもらうことにした
出発までスーツケースなどの最終整理をして部屋でのんびりと過ごし、今日も晴天の中カトマンズのトリブバン国際空港への向かった

バンコクまでの4時間ほどの飛行は眠っている間に着陸していた
バンコクの清潔感がある空港は安心感があつた
そこで食べた少し辛い焼きそば(220バーツ)はおいしくいただけた
ハルちゃんへのお土産としてゾウさん(150バーツ)をここで仕入れた

4時間ほどの乗り継ぎ時間を経てTG-640便の席に着いた

11月14日(20日目) カトマンズ

今日は山岳フライトを予約してある
5時45分にホテルを出発する予定であったが、行きもそうであったドライバーが寝坊をしてこない
本日もそうで、そば屋の出前のようで「もう出た!」
今朝も遅れてきた
うぅ~ 行きに寝坊したドライバーではないようだ
代わりなのか、代わりのドライバーも寝坊なのかはよくわからない
今日も快晴で、ガイド曰く、この10月から山岳フライトが中止になったことはなく、本日も大丈夫ということであった
確かに明けてきた空の向こうには白き山も見え、本日も快晴のようだ
チケットを受け取り、セキュリティーチェックを2度受け、待合室に入った
ふと、窓を見ると真っ白ではないか!
カトマンズ盆地特有の霧が立ち込めている
「朝霧は女の腕まくり」=大したことはないとの例えだが、ネパールの女の腕まくりは大したことがあってか、3時間経過してもこの霧が晴れることはなく、フライトはキャンセルとなった
チケットのキャンセル確認を受けて空港を出るとなんと晴れていた!
ガイドが明日に予約を入れるかと聞いてきたが、出国のあわただしい時の早朝に今朝のようにバタバタするのも嫌だと言っておいた
ホテルに帰ったところ、まだ10時前だったので、朝食にありつけた
ハッキリ言って、ホテルの飯が一番おいしい!
相棒はネパールに来るのが初めてである
カトマンズの見どころぐらいは行って見いだろうとは思っているのだが、どうも私の体調は思わしくなく、咳が続き、熱もあるようで、とてもだるくホテルのベッドで寝ていたい
参加者のもう一人の方が、スワヤンブナートの目玉寺院に行ってみてもよいとの意向を示していたので、相棒と一緒に行ってもらい、私はホテルのベッドで横になっていた
地震で壊れたスワヤンブナートの目玉寺院は完全に修復されていたそうである
夕食は市場を案内した後、チベットの本格的な鍋料理のギャコックだそうだ

喧騒のタメル内を歩き市場の中央へと出た
37年前、家内とカトマンズ市内を元気にうろついていた際にも来たような記憶があるところであったが、こうも体調が悪いと思い出に浸る余裕も出ない
アンパンマン君が岩塩を説明してくれたので、三種類の小さめの岩塩を選択しおばちゃんにお金を支払った。いくらであったか記憶がない

フリータイムを適当に過ごし、 ギャコックを食べにレストランに入った
お湯を足せばいくらでも飲めるという不思議なお酒、「トゥンパ」の紹介を受け、飲んでみることにした
酸っぱくてとても不思議な味がした
多くは飲めず、肝心のギャコックも多くは食べれなかった


ここからフリーとなった
結構位置関係が明らかだったので、 相棒が捜しているCD屋さんで民族音楽を仕入れ、私が捜しているキーホルダー屋さんでキーホルダーを仕入れてホテルに帰った
シャワーを浴びる気もなく、その夜も咳込み、質の良い睡眠はとれなかった

11月13日(19日目) ルクラ→カトマンズ

添乗員の知らせによると、朝一番の飛行機の予約が取れたということで期待していたのだが、手にしたチケットを見てみると、4番目の飛行機のようだ
しかし、ルクラ飛行場の待合室に入ってみると人であふれていて、次の飛行機かと期待すれば外れの連続で、機体を見てみると、航空会社がいくつかあって私たちのチケットのTara Airの4番目のチケットで、なかなか順番が来ないのも当然かと思えた
しかし、天候は申し分なくルクラ上空には雲一つなく、風も穏やかで、すぐに私たちを乗せる飛行機も飛来してくるものと考えられ、安心できた
空港で1時間くらいは待っただろうか、我々の便も順調に飛び立ち、40分ほどの飛行でカトマンズに到着した
迎えのマイクロバスに乗車し、アンナプルナホテルに入る
行きに泊まった部屋には湯船があつたが、今回の部屋にはシャワールームしかなく、それでも熱いシャワーで何日ぶりかの汗を流した
昼食は、信州で修業を積んだ職人さんがいるという日本そば屋に行くことになった
蕎麦に天ぷらはおいしかった
私の鼻がどうにかなっているのかもしれないが、そばの香りは薄いような気がした
それでもおかわりをして蕎麦はいただいた
相棒は、燗をつけてもらった日本酒を飲んだ
私は体調が今一で、酒は受け付けなくなっていた

昼食後はフリーとなって、私と相棒はホテルに戻ってから二人で近くの王宮ミュージアムでも見学しようかと考え、出かけてみたがどうも様子が変だ
警備員にたずねたところクローズだそうだ
今日は日曜日だが、日本のミュージアムが月曜日が休館日になるのと同じような考え方なのだろうか?よくわからなかった
そのままホテルに帰るのもなんだなと思い、そのままタメル地区をもう少し深いところまで歩いてみた
つかれたので、先に来たことがあるカフェを探し出し、コーヒータイムとし、買い物もせずホテルへと戻った

夕食は、ホテル近くの日本食店ですき焼きを食べた
私は生卵と日本米が出たので、卵かけごはんにして一膳先に食べてしまったところ、後のすき焼きが入らなくなってしまった
後で考えてみると、ネパールですき焼きは食べなくてもよかったのではないかとも思えた
その夜も咳で寝苦しかったし、少し熱も出ているように感じられた
手持ちの風邪薬を飲んでいるのだが、咳には効果がないようだ

11月12日(18日目) パクディン→ルクラ

8時にパクディンを出発し、ルクラには12に時前に到着した
もう歩く必要はない
明日、この好天が続き、カトマンズから軽飛行機が来てくれることのみ願う
おみやげ品が欲しく、ルクラで換金し、耳も覆う帽子(300Rs)を6つとバフ(150Rs)も6つ、ポシェット3つ購入した
これで無駄にタメルをうろつく必要もなくなった
コーヒーを飲もうとギャルジュンを誘ったら、なんと戻ってロッジのカフェに入った
途中、拾ったセシールも誘って、カフェで何でも食えと言ったが、遠慮がちであった
それでもピザなどを注文して食べていた
ギャルジュンは私を「バァジ」と呼ぶ
シェルパリーダーのギャンさんの説明によると、尊敬の念を込めて老人を呼ぶ言葉だそうだ
ネパールの男性の平均寿命は55歳、女性は53歳だそうで、69歳の老人はネパールではすごい歳の老人ということになる
それだけ長く生きているだけでも尊敬の対象になるのかもしれない

夕食は5時と早く始まり、宴会となった
最初はビールで乾杯、その後はネパールの地酒であるチャンは飲み放題となった
オーディオからは、シェルパのギャルジュンが良く歌っていたResham Fiririが流れ、みんなでダンスも踊り、ケーキも用意されていた
私は早めに部屋に戻って眠りに就いたが、食堂で11時半まで飲んで騒いでいた連中は、他の宿泊者からおしかりを受けたそうである
右端の写真はネパール人スタッフ
左からモホン、ギャルジュン、セシール、ディリー、一番右がシェルパリーダーのギャン氏
ヤク使いの女性は宴会には加わらなかった

11月11日(ナムチェバザール→パクディン)

ナムチェバザールを8時に出発した
行きに登って来た道とは違う東側に寄った道を選択しながらナムチェを離れようとしていた
今日は金曜日だった
バザールが開かれる日だ
店が開き始めていた
また、バザールへの荷を満載した隊商がナムチェへどんどん上がってきていた
ナムチェバザールの町はずれでは、ネパールの国鳥であるダフェを見ることができた
モンジョには10時に到着、ここのTCKET COUNTERでの確認では、本年10月の入山者数は10013人、昨年は5000人だったそうだから入山者数は回復しているそうだ
































14時半に行きにも泊まったサンライズロッジに入った(2783m)
ここでとれた部屋はグレードアップし、部屋にトイレ・洗面所があっ


11月10日(16日目) タンボチェ→ナムチェバザール

タンボチェを8時に出発
その前に、ひとりの日本人が、ひとりのポーターにダッフルバッグをあづけ、ひとりのシェルパと共に元気に上に上がって行った
キャンジュマまでの3時間の登りは咳が止まらず苦しい登りとなった
前日、前々日のヤク糞ストーブの煙でのどをやられたのが咳の原因だ
ナムチェバザールに入る前、全員の希望でシェルパミュージアムの見学を行った
シェルパの古典的に家も保存されておりこの内部も見学した
ミュージアム内部はほとんどが写真記録といってもよい
田部井さんのエベレスト登頂写真も飾られていた
行きにも泊まったスノーランドホテルに入った
「今日も良い部屋がとれた」ということで期待したのだが、行きに泊まった部屋とは全く違い、かなりランク下の部屋でトイレ・シャワーは部屋にはなく、コンセントにも電気は来ていなかった
行きのタンボチェからブログ更新もメールもLINEもつながらない状態が続いていたので、500Rsを支払いWi-Fiにつなげ、早速家内へ連絡を入れた
連絡が途絶えていたので心配していたようだ
喉をやられて調子は良くなかったのだが、家内には心配をかけたくなかったので、「元気だから心配はない」と少し嘘をついた
夜は咳き込んで、辛く良い睡眠を得ることはできなかった

11月9日(15日目) ベリチェ→パンボチェ→タンボチェ


ベリチェを8時に出発した
下りというか、帰るとなるとみなさん早い

11時前にはパンボチェ(3930m)に到着してしまい、ここで昼食となった
おかわりをするくらい食事はすすんだ
我々の食欲減退は、メンバーのみなさんもよく知っており、私の食事がすすんでいるのを見て、喜んでくれた
ありがたいことである

昼食をいただいたロッジでは、小さな猫が甘えて来て食事をねだった
与えてはいけないとわかっていてるのだが、愛猫のsmokyのことが思い出されて、ついつい食事を与えてしまった
何でもよく食べるネコであった

本日の宿泊地、寺院の村タンボチェにも40分も早く到着し、13時半にはロッジに入った
ここには製材所があった
細い丸太を製材して角材を作る位なら、丸太のまま工夫をして使った方が良いようにも思えた
私も相棒も体調を回復しており、緩い坂道であれば平地を歩いているようで、息も上がらずスピードもアップした
高度の影響というものあらためて認識できた
ここタンボチェでは、行きにはガスに隠されていた夕日に赤く染まるアマダプラム、ローツェ、エペレスを見ることができた
また、このタンボチェには、加藤保男の春、秋、厳冬期のエベレスト登頂10周年記念碑、湯浅道男の2007年記念碑が残されていた
湯浅道男の記念碑は、ジューディーオングが寄贈しており、また橋本龍太郎の書も刻まれていた
行きもそうであったが、ここのロッジは、台所が狭く、我々に同行しているコックがここの台所を使うことができず、外でコンロを使い我々が使うお湯を沸かしてくれていた
ここでの夕食は、我々のコックが作ったものではなく、ロッジから提供を受けたダルパートだが私はこれも食べることができた




ここも、ここまでは良かった
ここでも、ヤク糞ストーブの被害に遭遇してしまった
ヤク糞ストーブの煙が私の部屋の104号室を直撃していた
ここでさらに喉をやられ、咳はさらにひどくなり、夜は特に咳き込んで良い睡眠を得ることができなくなってきた

11月8日(14日目) ロブチェ→ベリチェ

昨夜、ロブチェのマザーアースハウスで私はすごくよく眠った
6時30分のモーニングコールまで眠っていたので、12時間眠っていたことになる
相棒はシュラフの中でビクとも動ない私を見て「死んでいるのではないか」心配したそうだ
この長い睡眠が効いたのか、少しだが高度を下げたことが効いたのか、食欲が回復してきて、今朝は朝食を口にすることができた
私も相棒も3日間、ほとんど食事を口にしていない
私の場合、胃が止まっているようなので意識して食事はとらず、水分のみで過ごしてきた
この判断は間違いなかったと思っている
今日はベリチェまで下る
昨日、ロブチェまで下ってきているので、ベリチェまでは近いので、いつもより遅く、7時半過ぎにロブチェを出発した
途中、遭難者のメモリアルが立ち並ぶトゥクラ峠(4830m)に達した
いくつも立ち並ぶメモリアルの中のひとつの石碑の前にツアーガイドのアンパンマン君が立ち、説明を始めた
その石碑には、Babu Chiri Sherpaの名が刻まれていた
彼はエベレストに10回登頂し、酸素なしでエベレスト山頂に長くいた記録を持ち、エベレスト登頂の最速記録も持っているとのことであった

12時チョット過ぎにはベリチェに到着した

コンラ・マ越えで付けていた歩数計が9007歩しか示さなかったので、以降外して歩いていたのだが、本日は再度つけて歩いてみた
4時間半歩いて、歩数は14677歩であった
午後は宿となったクウーンブロッジで日向ぼっこをしながらのんびりと過ごした

食欲は完全に回復し、最初に出された量は完食できるところまで回復したが、無理は禁物とわかっているので、おかわりは避け、食後もキャベジンを服用した
最近は、3時半のお約束であった午後のガスも湧くこともなくなり、 随分と形は違って見えるアマダプラムの上に月が出てこれも美しい

夕食も完食であった
アップルパイだったか、それもおいしくいただいた
食欲は完全に戻った
体調も回復して来ていて、元気になり、冗談も飛び出すようになった



ここまでは良かった
体調も戻ってきて、元気になった!
だが、
ここベリチェのクウーンブロッジのヤク糞ストーブがまずかった
室内煙突が途中で破れている
夕方、煙突が破れているのに構わずヤク糞ストーブを焚いた
当然、煙は室内に漏れ、臭くてたまらない
食後直ぐに私は部屋に逃げたが、この煙で喉をやられた
この夜から咳がではじめた

11月7日(13日目) ゴラクシェップ→エベレストBC→ゴラクシェップ→ロブチェ

昨夜の夕食後、添乗員のアンパンマン君から提案があった
明日、エベレストBCから戻ってきたら、予定ではここゴラクシェップに連泊する予定にはなっているが、その先のロブチェまで下りたいと思うがどうかとのことである
その理由としては、
1.メンバーの中に高度障害が出てきていること、
2.ゴラクシェップの水は溜め水を使っているので水質が良くないこと
3.ゴラクシェップのロッジのキッチンを我々同行のコックが使用することが許されず、日本人に合った食事の提供ができないこと
があげられた
メンバー全員の賛同が得られ、コラクシェッブ連泊ではなく、本日はロブチェまで下ることとなった
アンパンマン君、前述の通り3つの不具合点を挙げたが、私と相棒が3日間ほとんど食事を受け付けなくなっていることに配慮しての提案ではなかったかと強く思えた
少しでも高度を下げた方が良いと考えたのであろう
そんなことがあり、
本日はロブチェまで下るので、予定よりも早い起床となり、5時に起床し、7時にエベレストBCに向けて出発した
エベレストBCまでは、昨日のカラパタールへの登りとは違い急登急坂はないのだが、5000メートルを超えての行動は苦しく、楽にエベレストBCまで辿り着くというわけにはいかなかったものの、昨日
カラパタール登頂を断念した女性参加者も復帰し、参加者7名全員がエベレストBCへとたどり着くことができた(5245m)
エベレストBCは、もう少し広い所かと思っていたが、とても狭く険しいところで、シェルパリーダーのジャンさんの説明によると、遠征隊のテント設営はとても苦労するそうだ
我々に同行している明るいギャルジャン・シェルパ君はエベレスト遠征隊にも3回加わっており、BCを襲った大雪崩の際もここにいたのだが命拾いをしているひとりでもある
雪崩はエペレス側からだけではなく、プモリ側からのものが大きくエベレストBCでぶつかり、遠征隊の天幕群は上に持ち上げられ叩きつけられたとのことであった

エベレストBCに辿り着いた私たちは、お互いの健闘をたたえあい、ここを折り返し点とし、10時20分、帰宅の一歩を踏み出した
2時間でゴラクシェップのヒマラヤンロッジに到着し、ここで昼食としたが、この昼食も全く食べることができなかった






ここゴラクシップから更に2時間半かけて下り、水も豊かなロブチェ村まで下りてきた
高度は5000mを切り、4949mとわが身につけた高度計はその値を示していた

5000m以下の地まで下りてきたのだが、ここロブチェで出された夕食も口にすることはできず、コンラ・マ下部のテント場を発ってから3日間、私も相棒もほとんど食事をとることはできないでいた
しかし、いつもお茶の時に出してくれる「COCONUT CRUNCHEES」 のBISCUITSが食べやすく、ガイドのセシールが「もっと食べろ」との勧めもあってミルクティーと共に7枚を口にすることができた
私の相棒も同じようで、このビスケットだけは口にすることができた
私はかなり疲れていて、何も食べることができなかった夕食後は、 歯も磨かずに18時30分、シュラフに潜り込み、死んだように眠った

2016年11月19日土曜日

11月6日(12日目) ロブチェ→ゴラクシップ→カラパタール→ゴラクシップ

今日は帰国後4日目である
11月16日の帰国後、高熱と咳に苦しめられている
11月8日のベリチェから咳がではじめ、カトマンズでは計ってはいないのだが、発熱もあった
その状態のまま帰国
添乗員の勧めもあり、帰宅後すぐに家庭医の医院に駆け込んだ
検査の結果、肺のレントゲン映像に異常は見られず、肝機能も腎機能も問題はなかったのだが、感染症の数値が高く、その原因が特定できず、かかりつけ医の二人の頭を悩ました
その後、感染症に詳しい病院へ紹介され、移って診察、詳しく厳密な検査を受けたがここでもはっきりとした原因はつかめなかった

処方されたマイコプラズマ肺炎(?)の薬が効いてきたのか、本日夕方より体調が回復してきたようで、パソコンを立ち上げることができ、ブログの更新を行っている
今夜は熱と咳に悩まされずにゆっくりと眠りたい

では、12日目のブログの内容に移る
今朝も食欲はなく、コックが用意した朝食はほとんど食べることができなかった
気温も低く、 7時29分現在で-5℃である
ロブチェからゴラクシップまでは緩い登りで苦しくはなかった
左の写真、先に見えるところがゴラクシェプ
カラパタールへの登頂ルートもハッキリと見える
ロブチェを発って、3時間20分でゴラクシェプに到着した
ここゴラクシップはトレッカー用のロッジが建つ最後の地である
先回りしていたコックが、今夜の宿であるMother Garth Houseでスパゲッティー作り昼食としてくれたが、これもほとんど食べることができなかった
この食欲不振は、体の疲れだけではなく、高地の酸素量不足が大きく影響しているものと考えられる
要するに私の高山病は「消化器系の不全」として現れたようだ
このな時には無理に食べない方が良いと判断し、バームウォーターとお湯に日本から用意したカフェオレを溶かして水分補給だけで過ごすことにした
それと昨夜から食後にはキャベジンを服用した
無理に食べないという対策は良い方向に働いたと判断できた

昼食後、7人パーティーの内一人を残し、6人がカラパタール登頂を目指した
遠目に見た時には緩い登りに見えたカラパタールへの登りは私の判断違いで、カラパタールへは最初から急登が続いた
前日のコンラ・マの登りと同じく足は軽いのだが、息が切れて苦しい登りとなった
30分ほど急登を上ると傾斜が緩やかに地に出た
「右にエベレストが見えますょ」という声に顔を上げたところ、大きく黒いエベレストが大きな姿を濃紺の空を背景に美しい姿を見せてくれていた

カラパタール直下の登りもきつかったが、ゴラクシップから2時間でたどり着いた
プモリは目の前に大きく、エベレストは微笑み、ヌブチェは鋭いピークを見せ、アマダムラムは遠くなった
疲れは吹き飛ぶなかったが、思わず叫んでいた
エベレストがこんなに近くにある!






下りは1時間半でゴラクシップのロッジに辿り着いた







ゴラクシップにはヘリポートがあり、絶え間なくヘリが離発着をしている
シェルパリーダーの話によると体調を崩すものが多く、ヘリで下されているとのことであった
前日に親しくなった明るいスペイン人も肺水腫の疑いがあり、ヘリで降りて行った

ゴラクシェプから飛び立つ救助ヘリの向こうに、世界で最後の夕日を浴びたエベレストが赤い姿をのぞかせていた

先に降りていたツアーガイドのアンパンマン君がヒマラヤンロッジでお餅入りのお汁粉を作ってくれていた
ほんの少しだが、これはおいしくいただけた

2016年11月14日月曜日

11月5日(11日目)テント場→コンマ・ラ→ロブチェ

昨夜は-16℃まで気温は下がった
このテント泊では自前のシュラフを使って眠った
厳冬期用シュラフは暖かであったが、色々な面でテント生活は厳しかった
ダイヤモックスを服用しているためだと思うが、夜中に3度トイレのために起きた
冷えた中、シュラフからはい出し、凍ったテントと外張りの入り口を開け、サンダルを引っ掻けて外で用を足すのはかなりの重労働である
夜間にも水分をとるように言われているが、水筒の水は完全に凍っていた

これまで用意してくれた食事を残すということはなかったが、昨夜の夕食は初めて食べきれずに残した
まずかったわけではないが、食べきれなかった
食欲が減退していた
本日の出発は早く、7時にテント場を後にした

振り返るとマカルー(8463m)も姿を現わしていた(中央)

最初は苦しい登りもなく、ハイキャンプには9時40分に到着した
このハイキャンプは湿地となっており、テント場としては適してないように見えた

5502mのコンマ・ラへの登りはキツかった
足は動くのだが、息が切れて思うように体が動かない
本日の昼食はテント場でコックが用意してくれた弁当なのだが、半分も食べられなかった


コンマ・ラ(先にいるのはシェルパの3人)







コンマ・ラからは急坂をロブチェへ向けて一気に下る
幸い、雪がついて無くアイゼンをつけることなく下りきることができた

簡単そうに思えた氷河の横断は意外と手こずり、この日は遅く、4時近くになってようやくロブチェのヤクロッジに到着した
疲れた!
最近、これほど疲れたことはないくらい疲れた
この日の夕食はほとんど残した
胃が動いていないことが感じ取れた
このような時には無理に食べない方が良いと判断しミルクテーなどの飲み物だけで過ごすことにした
相棒も全く同じ症状であった