2023年3月27日月曜日

消える三愛ドリームセンター

 今朝の朝日新聞25面文化面に「消えゆくランドマーク・・・」の記事が掲載された

銀座4丁目に面して立つ、銀座のランドマークである「三愛ドリームセンター」の解体が始まった

晴海通りを挟んで向かい合う、古風な様式の和光ビルとは対照的な、ガラス張り円筒形のモダンな建築様式となっている

私がリコーに入社した年には、この三愛ドリームセンターは既に建っていた

私も老人となったが、1963年建立の三愛ドリームセンターも60歳定年退職の老体となった

この銀座を、そしてリコー三愛グループを象徴するような三愛ドリームセンターが消えてしまうのは寂しい気になる

しかし、人間も建物も老いは素直に受け入れなければならない

この銀座4丁目には、次にどのようなビルが建つのか楽しみにしたい

私が32歳ころかと思うが、リコー三愛グループの合同入社歓迎会の総合司会を務めたことがある

リコー三愛グループの合同入社歓迎会は、有楽町の読売ホールを借りて開催した

総合司会者として挨拶に立った私は、リコー三愛グループの歴史の1ページとして、この三愛ドリーセンターが立つ銀座4丁目の土地の取得についての経緯(いきさつ)を新入社員に説明した

今でも私はその光景、そしてその時に私が何を着ていたかもはっきりと覚えている

そして何を話したかもはっきりと覚えている

話の趣旨は添付の漫画(*1)の切り取りにある通りである

最初、銀座の一等地である銀座4丁目の土地は、社長の市村清が何度もの折衝の末、土地の所有者である安田銀行から入手したものである

しかし、この土地は65坪とあまりにも狭い

その西隣に江戸時代から続く老舗足袋問屋の佐野屋の土地があった

社長の市村清は、当主の老未亡人の元に何度も足を運び、譲ってくれるように懇願したが、未亡人は頑として首を縦に振ってくれなかった

冬のある大雪の翌日、当時本社があった浅草橋のリコーの事務所にこの未亡人がやって来て、「今日はきっぱりとお断りをするつもりで訪ねてきたが、土地はあなたに譲ることにした」と言う

未亡人の気を変えた理由は次の通りである

昨日の大雪で、道はぬかるんでいて、浅草橋の本社事務所に到着した時には、未亡人の足は溶けた雪と泥で汚れていた

それを見かねた女子事務員が自身のスリッパを脱ぎ、素足になり、自分に譲ってくれ、体をいたわるよう抱えて階段をあげてくれたと言う

このことに感動した未亡人は、この事務員がいる会社を信じ、先祖から引き継いだ土地だが譲ることにしたと言う

なぜ私が合同入社歓迎会でこの話をする気になったのか、今となってはよくわからないのだが、こんな経緯(いきさつ)について、私自身が感動していたのではないかと考える

そんな会社にみなさんは入社したのだ!と伝えたかったのだと思う

しかし、私は入社からかなり長い間、このビルは三菱のビルだと思っていた

なぜならば、この円筒形のビルの上にはネオンに輝く三菱の大きなマークがあったからだ

そんな私が、こんな感動話をして良かったものかと、今となっては思うのである

*1:まんが・市村清物語 https://www.san-ai-kai.jp/ichimura/comic.html

p.s.

こんな昔ばなし、今の社員たちは誰も知らないかもしれない

それよりも、三菱のビルだと思っていた若かりし頃の私のように、今の社員たちは銀座4丁目の三愛ドリームセンターも自社ビルだとは思っていないかもしれない

私にとって銀座は本社のイメージが強い

晴海に勤め先があった妻との待ち合わせは、銀座のニッサンピルかソニービルであった

酒に興味がない私は、夜の銀座はほとんど知らない

リコーは、経営上の都合で本社を大森事業所に移したりもしたし、何故か青山に本社があった時代もあったが、やはり本社は銀座という感覚が私は強い

16年前の4月某日、社員証と社員バッジを受付に置き、60歳となった私は、振り返りつつ去ったのも銀座本社ビルであった

銀座歌舞伎座近くの旧本社ビルの2棟も今はなく、私が退社前の数年を通っていた前述の銀座8丁目の本社ビルも今はない

4丁目だけは残してほしい

こんな思いに駆られる私は、団塊世代の会社人間だったのかもしれない

昨夜、妻が笑いながら(昭和)53年2月の私の給与袋を持って自室から降りてきた

そんな古い給与袋を妻は保管してあった

そんな私の妻は、「団塊世代の会社人間」を支えていた一人である

0 件のコメント:

コメントを投稿