2013年6月7日金曜日

5月27日の車中泊の旅(10日目)


2013/05/27(月)

私の車の後ろに入ってきた軽自動車の音で2時半に起こされた
エンジンは切らないし、ライトも点けっぱなしである
誠にうるさいが、道の駅であることからして車中泊者に騒音防止をとやかく言う資格はない
目は完全にさめてしまったので、そっとドアーを開けてトイレに立った
ベンチに座っていたところ、その車は立ち去った
まるで私の睡眠を妨害するためにきたような車であったが、昨夜は9時10分に眠りに就いたので、計算してみると既に5時間以上の睡眠はとっていることになる
自宅でも12時過ぎに床に入り、4時半に起床しているので、それよりも睡眠はとっていることになる
車内に入ってしまった一匹の蚊もうるさく動き回っている
膝のあたりに来たところを叩いたらうまくヒットして潰してやった
外に干しておいた洗濯物に触ってみたところ乾いている
さてこれからの時間をどう過ごしたらよいものか考えて、まだ3時15分だし早いのでもうひと眠りしようかと思っているところにディーゼルエンジン車が入ってきて、この車もエンジンをかけっぱなしで駐車している
窓を開いてみたらトラックだ
しかしまだ早いのでふとんにもぐりこんだところ、眠ってしまったようだ
私の神経も図太いようであるが、今度は男の大きな話声で起こされた
5時35分、何をそんなに興奮しているのか
喧嘩でもしているかと思って、窓を開けてみて驚いた
軽トラ族である
20台ほども集まっているであろうか
その中のリーダーなのか誠にけたたましい声をあげている
何だろう
ゲートボール大会でもあるのか
それにしては早すぎるか
ひと騒ぎをして20台近くの軽トラ族は去っていったが今度は道の駅に商品を出す人たちが集まり始めた
早々に食事をして、6時34分に道の駅「ぬまくま」を後にした

天気は高曇り、こちらは梅雨に入ったようである
7時04分に給油のためにガソリンスタンドに入る
147円という表示ではいったが、実際は150円/ℓであった
小さな字で会員価格とかプリカ使用とか書いてある
安い給油先で給油するためには、10ℓ缶程度の物を持っていた方がよいのかも知れない

8時15分、国道2号線はかなり混んできて通勤渋滞と思える渋滞にはまった
この渋滞は先輩宅に着くまで続いていた
少し迷ったが、グーグルアースで確認したことがある先輩宅に9時15分に到着した


先輩宅では流木や木の根をうまく活用した作品を説明付きで沢山見せてもらった
ホームページやブログは開いていなとのことでチョットもったいないような気もした
10時過ぎになって先輩の車で各地の城へ先輩の案内付きで出かけて、あれやこれやと色々と見て回り、今は頭の中が混乱状態である

回ったところは次の通りだと記憶している(説明は6月5日に資料より追記したもの)
1. 吉備津彦神社
当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に 四道将軍 として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。後に佛教が入り正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え神宮寺や法華堂も建ちいよいよ御神威は広大無辺に広がり古代気比
大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の 一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されてきました。
皆様の平穏無事と弥栄を二千年に渡って見守り続けてきた神域は神オワス杜、鎮守のやすらぎの杜として、今なお皆様の祈りとともに守り継がれています。 

2. 吉備津神社
「吉備津神社」は備中の国の一の宮で、「吉備津彦神社」は備前の国の一の宮です。
どちらも同じご神体の山(吉備中山)の麓にありますが、この山が備中の国と備前の国の国境でもありました。
元々この地は、地元の英雄「温羅(ウラ)」と征服王「吉備津彦命」が争った場所で、「吉備津神社」は殺されて祟る「温羅」を祭り鎮める神社としても有名です。


吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。
大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。 

3.高松城
高松城は戦国時代、備中国高松(現岡山県岡山市北区高松)に存在した城。讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる。羽柴秀吉による水攻めで有名である。
城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。
築城時期ははっきりしないが、松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。天正3年の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれる。
天正10年(1582年)織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻めにかかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。5月8日に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものである。世に言う「高松城水攻め」である。人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。
ここに信長を招く準備をしていたが、6月2日本能寺の変が起こり計画は頓挫した。翌日、光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘
束。密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の外交官・安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)を仲介役に和議を成立させた。城兵の命と引き替えに6月4日宗治は切腹。秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した
その後、高松城は宇喜多領となり、花房正成が城主として入城。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏の旧臣であった花房職秀(職之)が城主となり、高松城に入城した。この時期に城域も整備されたが、職秀の死後、一国一城令で廃城となったと思われる。
現在は秀吉が築いた堰堤や、城の石積みの一部が僅かにあるのみで、城の痕跡はほとんど残っていない。城跡には宗治自刃の碑、宗治首塚・胴塚があり、公園として整備されており資料館が開館している。堰堤跡は高松城水攻め史跡公園として整備され、発掘調査により土杭等が確認されている。城跡と堰堤跡は「高松城跡 附:水攻築堤跡」の名称で国の史跡に指定されている。

4.吉備の大王の古代古墳


全長360メートル。吉備地方最大の造山(つくりやま)古墳である。わが国の三大巨墳(いずれも伝天皇陵)の中の石津丘古墳(伝履中陵、大阪府堺市)に次ぐ全国第4位の巨大な前方後円墳だ。近くに6基の陪塚(ばいちょう)を従え、名実ともに古代吉備を象徴する王中の王の墓である

5.備中国分寺
備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院で山号は日照山
本尊は薬師如来
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあた。
田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっている 

6.鬼の城

鬼ノ城(きのじょう)は岡山県総社市の鬼城山(きのじょうざん 標高397メートル)に遺る神籠石式山城。国の史跡。
すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた面積は約30
ヘクタールを測る。城壁の要所に、門、城外への排水機能を持つ水門を配する。門は東西南北4ヶ所、水門は6か所に確認されている。城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、烽火場の可能性が指摘される焚き火跡、水汲み場、鍛冶場、工事のための土取り跡などが確認されている。

7.宝福寺
室町時代、備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた雪舟は、少年時代ここで修行を行った。幼少より絵が上手であった雪舟のエピソードとして鼠の絵の話が残されている。
絵を描くことが好きであった雪舟少年は修行もそこそこに絵ばか
り描いていた。修行に身を入れさせようと禅師は雪舟を柱に縛り付けて反省を促した。夕刻、様子を見に来た禅師は逃げようとする一匹の鼠を見つけ捕まえようとしたが動かなかった。よく見るとそれは雪舟が流した涙を足の親指で描いたものであったという。それ以来、禅師は雪舟の絵を咎めなくなったといわれている。
現在この時の床板は、取り外されている。
8.備中松山城
松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市市内山下にあった山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)。国の史跡。日本100名城。四国の愛媛県松山市にあった松山城(伊予国)との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ぶ。城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守などが国の重要文化財に指定されている。
城のあった臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500m、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・の政務を行った。
現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には高梁高校がある。
先輩には昼食をごちそうになったし、家に戻っては種をいただいて行くことになっているツタンカーメン豆を使った炊き込みご飯を奥様が用意をしてくださっており、夕食までいただいた

先輩とお別れをして車を進め、岡山の路面電車を見学するために、岡山駅へと向かった

ここも時間がないので、乗車はせず、写真に収めて終わりとした

今夜の泊まりどころの候補地である道の駅「一本松」に到着したのが遅くなって20時15分となった
自宅を出発してから2000㎞を超えた(122081㎞ 2078㎞)
この道の駅は一般車は少なく、エンジンかけっぱなしのトラックが多くかなりうるさい
また風が非常に強く、その風で車が揺れるのでなるべくか風あたりが弱い所を選んで駐車する

本日備中松山城で聴いた二人内蔵助の赤穂城の情報を本日お
世話になった先輩からメールと電話で知らせてくれた
これは明日行ってみる必要が出てきた

弟からは梅雨入りの情報が、家内からは愛猫の写真がメールで届いた

本日の出費

07:06       ENEOS      ガソリン21.26ℓ        3083円(145円/ℓ) 121988㎞ 85㎞
07:55       セブンイレブン  7コーヒーガソリン      100円
高松城      入場料             600円/2人
18:43                  パーキング          200円
合計                       3983円

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